ヨガのレッスンの最後に行うことが多い、シャヴァーサナ
仰向けになり、身体を床に預けて休むアーサナです
外から見ると、ただ横になっているだけ
ところが、この「何もしない」ということが、意外と難しいのです
私自身、身体を動かさずにシャヴァーサナに入ったときや、ほどほどに動いたあとのシャヴァーサナでは、余計なことを考えたり、身体が落ち着かずにもぞもぞしたりすることがあります
「あー、また変なこと考えてんなー」
そう思いながら、ふぅ〜っと息を吐く
うまく思考を手放せることも、たまにはあります
でも、大抵はそのまま考えごとに巻き込まれてしまいます(笑)
身体がもぞもぞするときは、もぞもぞする
シャヴァーサナをしているからといって、いつでも心身が静まるわけではありません
動かないことと、静まることは違う
一方で、身体をしっかり動かしたあとや、本当に集中できたあとのシャヴァーサナでは、まったく違う感覚になることがあります
スコーンと意識がクリアになって、何とも言えない心地よさが訪れるのです
生徒さんからも、シャヴァーサナのあとに
「まだティンシャを鳴らしてほしくなかった〜」
と言われることがあります
それほど気持ちよく過ごせる日もあれば、
「晩ごはんのことを考えていました(笑)」
という日もある
同じレッスンを受けていても、人によって体験は違いますし、同じ人でも日によって変わります
だから、仰向けになって動かないことと、心身が静まることは、必ずしも同じではないのだと思います
最初は、身体と呼吸に意識を向ける
私のレッスンでは、シャヴァーサナに入るとき、まず呼吸や身体の感覚に意識を向けてもらいます
身体の各部分を感じながら、少しずつ力を抜いていく
床に預けられるところは、床に預けていく
そして、こんなふうに誘導しています
「そのうち身体の意識が薄らいで、内なる光に繋がります」
ここでいう「内なる光」は、私がヨガの中で大切にしている、内側の静けさへと向かう感覚を表した言葉です
最初は身体や呼吸を感じることが入口になります
けれど、その感覚をずっと追いかけたり、「ちゃんと集中しなきゃ」と頑張り続けたりする必要はありません
身体への意識が少しずつ薄らぎ、何かをしようとする気持ちも静まっていく
そんな時間へと移っていきます
音は聞こえているのに、考えごとにならない
私が深く集中できていると感じるシャヴァーサナには、もう一つ特徴があります
例えば、どこかで大きな音が鳴ったとき
「あれ? 何の音だろう?」
と考え始めることがあります
そんなときは、私の場合、まだシャヴァーサナに入り切れていないと感じます
一方、本当に心地よく静まっているときは、大きな音も遠くで聞こえるような感覚があります
音は聞こえている
でも、「何の音だろう?」という思考にはつながらない
ただ音が聞こえて、過ぎていく
そのことだけを認識しているのです
何も聞こえなくなるわけでも、意識を失っているわけでもありません
意識はあるのに、聞こえた音をきっかけに思考が広がっていかない
私にとっては、それが深く集中できているシャヴァーサナの感覚です
「気持ちいい」の、さらに先へ
しっかり動いたあとに訪れる、スコーンと意識がクリアになるような心地よさ
私はその時間が大好きです
でも、自分の中では、まだその先があるとも感じています
意識はあるのに、気づけば一瞬で時間が過ぎていた
そんなシャヴァーサナが、今の私の思い描く理想です
私はまだ、そこまで至ったとは感じていません
だからこそ、何もしないアーサナでありながら、探究し続ける奥深さがあるのだと思います
とはいえ、毎回その状態を目指して頑張るのも、何だかおかしな話ですよね(笑)
考えごとをしている日には、考えごとをしている自分に気づく
身体が落ち着かなければ、その状態にも気づく
そして、また息を吐いてみる
思考をうまく手放せる日もあれば、巻き込まれたまま終わる日もあります
シャヴァーサナは、ただ仰向けになっているだけのようでいて、毎回同じ体験にはならないアーサナです
何もしないことを無理に達成しようとせず、その日の自分がどんな状態にあるのかを感じながら、静けさへと向かっていく
私もまだ、その練習を続けています
